新ミシン

 
 「おこめとおふろ」に書いた通り、これまで勤めていた縫製工場が閉鎖になった。工場を仕舞うにあたり、これまで蓄積された数多の資材が、最終的には持ってけドロボー状態になるという、裁縫をする人間にとっては夢のような状況となり、同僚のおばさんたちとともに、毎日せっせといろいろ持ち帰った。夢のような日々だった。目打ち、小バサミ、ピンセット、テープ、芯、ボタン、押さえ、生地、糸。ただし勤めていた工場が紳士衣料専門の所だったため、あまり華やかな生地はない。ウールとかカシミヤとか、物はやけにいいのだが、黒や紺、グレーばかりで、子どものワンピースに使えるようなものは滅多に出てこない。糸もまた当然それに対応するわけで、落ち着いた色合いのものが多い。それでも、不意に1本だけ出てきたりする、こんなのいつ使ったんだろう? と思うような原色の糸や、あるいは汎用性が高そうなグレーやベージュの糸など、なんだかんだでずいぶんともらって帰った。
 しかし僕のマニアの人がこの文章を読んだら、たぶんこういうことを思うだろうと思う。
 工場で使っていた糸ということは、50番手60番手で3000メートルとか巻かれている、あの大きな巻の糸だろう。でもそれってパピロウさんの愛機、brotherの今はなき糸カセット仕様のあの(けったいな)ミシンでは、糸カセットの中に糸が入らないから、せっかくもらっても使えないんじゃないの、と。さらに言えば押さえだって、工業用ミシンのそれは家庭用ミシンでは使えないんじゃないの、と。
 僕ほどの僕マニアの僕ともなると、そこまでのことに思いを馳せる。
 でも安心してほしい。
 工場閉鎖に伴い放出されたものは、資材に限らなかったのである。
 どういうことかといえば、こういうことである。
 

 ババーン! 工業用ミシン! at自宅! でかい!
 さすがにこれはロハではない。ロハではないが、ずいぶんなサービス価格だった。本来なら引き取るはずだった出入りのミシン業者が恨み節を口にするような値段で、工員向けに販売されたのだった。この話を聞いたとき、僕はすかさず飛びついた。なぜならファルマンとのやりとりで、「次の就職が決まったら職業用ミシンを買ってもいい」という取り決めが既になされていて、職業用ミシンといえば8万~10万円ほどするからだ。それが、中古とは言え工業用ミシンで、それよりもだいぶ低い売値だったのだ。そんなの買うしかないだろう。
 ちなみになぜ職業用ミシンを買う話になっていたかといえば、次に働くのはたぶん縫製業ではないからで、これはきっといちど「直線がきれいに速く縫えるミシン」の味を知ってしまったせいなのだろうが、今後あの糸カセットのミシンだけしか使えない状況になってしまったら、たぶん僕はあんまり裁縫をしなくなるだろうという確信があった。だから人生の中で縫製業をしていた時期があったという軌跡としても、家にちゃんとしたミシンが欲しいなあと考えたのだった。
 オーソドックスな縫いのミシンは、家庭用ミシン、職業用ミシン、工業用ミシンに分類され、このうち職業用ミシンというのは触ったことがないが、欲しいなあと思ったときに眺めたカタログによると、縫いのスピードそのものは、工業用ミシンとそう違わないのだろうと思う。あとミシン下のレバーを右膝で押すと押さえが上がる仕組みも、職業用ミシンにはあるようだ。しかし縫いながら別のボビンに糸巻きをしたり、レバーで送り歯の動きを調整して縫いの目幅をピンポイントで小さくしたり、なんてことはできないらしい。あとはやっぱり工業用のアタッチメントのほうが多彩だし、パワーや安定感も工業用にはかなわないだろう。なんてったって工業用ミシンは、持ち運べないのだ。それだけでミシンとしての本気さが窺えるというものだ。
 とは言えテーブル一体型の、電化製品というより家具の範疇に入れたほうが正しいようなものを、果たして家に置けるだろうか、という不安はもちろん脳裏をよぎった。でも工業用ミシンが自分のものになる機会は、高い確率で、もうこの人生でここしかないに違いなかったので、どうしたって逃す手はなかった。
 そんなわけで退職から何日か経って先日ようやく、梅雨の切れ間を見計らって、いまだに悪態をつきながら、ミシン業者が届けに来てくれたのだった。家に入れてみると、まあやはり大きい。そして家の中に唐突に工業用ミシンがあるという情景に、違和感がある。でもこれって、サイズ的にもちょうど、アップライトピアノみたいな立ち位置かもな、ということを思った。
 この大きさはつまりテーブルの大きさで、なにぶん製品を量産するためのミシンなので置台も兼ねていて、かつて職場ではそこでお弁当を食べていたものだが、わが家においてはそこにオーバーロックミシンを置く、という画期的な活用法を思いついた。これが場所の有効活用どころか作業をする上でとても便利で、効率がよく、感動している。
 先ほど家庭用ミシン、職業用ミシン、工業用ミシン、という分類のことを話したが、職業用ミシンと工業用ミシンは、基本的に用途が一緒なので並び立つものではないが、家庭用ミシンというのは、直線縫い以外の、ボタンホールやカン止めができるので、これはこれで必要となる。今後はそれ専用のミシンとして用いると思う。
 というわけで、作ったものの紹介ではないのだが、「nw」におけるとても大きな出来事として、ここに記録した。もとい自慢した。めっちゃ嬉しい。