ビキニショーツ製作漫談 7 ~のび助計画の始動~

 
 3月、松江や倉敷で久しぶりに新しいニット生地を調達したので、それを使ってのショーツ製作を行なう。しかしはじめの1枚を作り、試し穿きをしたところで、「あれ?」となる。これまで150枚くらい作ってきた型紙で作ったのだが、どうも前までのような意欲が湧いてこない。1枚作って愉しくて、2枚目、3枚目と貪るように作る、という熱が高まらないのだった。
 同じ型で150枚も作ってたら当然そうなるだろ、なるのが遅いくらいだろ、という話かもしれない。もっともこの感情は前からうっすら漂い始めていて、だからロゴプリントショーツであったり、パイピングゴム紐ショーツであったりという、変異体を作っていた節もある。
 今回は大量に新しい生地がやってきたので、ショーツ製作ヴァージンのような気持ちで再始動しよう、そうなるとやっぱりまず作るべきは本式のオーソドックスな型のショーツだろう、と思って作った。それだのに完成品を穿いても気分が上がらなかったのでショックだった。
 鏡に映る着用姿を見て、なにがいけないのかと考える。そして気付く。刺激が足りないのだ。僕はその型のショーツを、普段から穿いているので、少々柄が目新しいものになったところで、もうほとんど感情が動かされないのだと思った。やっぱりわざわざ作るからには、新しさが欲しい。そうでなければ新しく作る意味がない(こう考えると150枚作るまで愉しみ続けたというのが逆に異常だったのだという気がする)。
 というわけで、抜本的に型を新しくすることにした。
 抜本的と言ったのは、これまでさんざん主張し続けてきたことの宗旨変えになるからで、これについては若干の忸怩たる思いがある。しかしどうしようもないことなのだ。
 僕はこれまでの「ビキニショーツ製作漫談」で、フロント中央に縫い合わせがあるデザインは絶対に嫌だ、ということを言い続けてきた。その理念から、今の型に至ったのだった。中央に縫い目を置くデザインの場合、ちんこのためのスペースはいかようにも作り出すことができる。しかしそれは忌避すべき「どーだ!感」につながるだろう。ビキニショーツというだけで「どーだ!感」は若干漂うのに、それのフロント部が、ちんこを強く主張するような形状になっていたら、それはもう見せつけであり、弁明のしようがない変態性欲の発露だろうと思った。そしてこの世にそういうビキニショーツが存在するから、ビキニショーツは変態性欲者の穿くものと世間から認知され、トランクス派やボクサー派に勢力として大きく水をあけられるのだと思った。自分の思い描くショーツはそういうことではなく、女の子の穿くような、女の子に穿いていてほしいようなショーツで自分の股間を包み込むことによって、そこに得も言われぬ快楽を発生させる、というのがそのコンセプトであり(変態性欲が迂遠なのである)、そのためちんこのために中央部に縫い目を置くなどもってのほかだった。
 しかし150枚の蓄積はどうしても僕を飽きさせていたし、それになにより、僕の巨大な、小学生男子にその威容を称えられるほど立派なそれを、中央に縫い目のないデザインで収納するのは、どうしても難しいケースがあった。ケースとはなにかと言えば、テンションがあまり高くないニットということで、横方向の伸びはもちろんのこと、さまざまな生地で作って穿いた感想として、実は大事なのは縦方向の伸びなのだった。ニットには、縦方向にはほとんど伸びない種類のものがある。150枚作ったデザインは、ニットの縦方向の伸びにわりと頼るものなので、そういう生地だとかなり窮屈さがあった。「小生に窮屈くらいでちょうどいい」という真理もある一方で、そうはいっても窮屈すぎるのは問題であるに違いない。自分の性器のことを「息子」と呼ぶ風習があり、ちょっと自分よりも上の世代がよく使う印象があって、これまであまりピンと来ていなかったが、伸縮性の低いショーツの中に押し込まれて苦しそうにしているさまを見て、初めて「息子にのびのびした環境を与えてやりたい……」という親心が芽生えた。なるほど息子と呼ぶ感覚は、こういうことだったのかと喝破した。
 「どーだ!感」を拒絶し、女子っぽショーツというコンセプトのもと、これまで一心不乱に邁進してきたけれど、そろそろ潮時だった。僕はそろそろ自覚を持つべきだった。巨根として、巨根を保持する者としての自覚である。君がどれだけそのことから逃げようとしても、世間は決して許さない。巨根に生まれた者には、巨根に生まれた者としての使命がある。巨根を持ちながら、それを覆い隠そうとするなど言語道断の所業だ。ひとりの巨根が生まれるまでには、淘汰に抗えなかった数多の短小がいることを忘れてはならない。
 というわけで、心機一転、僕は中央に縫い目のあるデザインで、ちんこをのびのびさせる新たなショーツ作りに取り掛かることにした。息子にのびのび生きてほしいという願いから、このプロジェクトを「のび助計画」と名付けることにした。野比のび太の父親の名前である。