「テレビ千鳥」でトランクスの人気ベスト3を当てるという企画をやっていて、少し興味を持ったので観たのだけど、その結果ちょっとハッとした。
出演者は千鳥のふたりと、笑い飯の西田、そしてアインシュタインの河合という4人で、このうち西田がトランクス派ということで、少しそのことをイジるくだりがあった。それではトランクス派をイジる3人はなに派なのかと言えば、それはもちろんボクサーパンツ派なのである。なんとなく大悟はふんどし派であるという勝手なイメージを持っていたのだが(島育ちに対する偏見だ)、どこまでも普通なのだった。
そう、本当に普通だったのだ。河合の穿いているボクサーパンツが、マリリンモンローを大胆にあしらったデザインであったことや、番組後半では各自がこれぞと思うトランクスを穿いて登場するのだが、そのときの河合のトランクスの穿き方が微妙に浅穿きであったことなどを、周囲の男子たちが指摘し、盛り上がる感じというのが、どこまでも普通の、まるで高校の風景のようであった。
そのさまを眺めていて気付いたのだけど、どうやら一般の男性って、自分の穿く下着(もといパンツ)に対し、ほとんど情念を持たずに人生を送るようである。ボクサーパンツ派かトランクス派かの、実質二択で、そのどちらかを選択して以降は、ほとんど起伏なく暮してゆくことになる。そう、男たちがパンツに関して言及するとすれば、それはもっぱら「ボクサーパンツ派? トランクス派?」だけなのだ。そしてそれは要するに、「ちんこ固定派? ちんこ浮遊派?」という問いであり、そのまま男どもは自分のちんこ観について語るフェーズに入る。パンツそのものにはほぼ興味がないと言っていいが、ちんこに関する話題の泉が枯れることはない。
僕だってつい5年前くらいまではだいたいそんな感じで、20年くらい漫然とボクサーパンツを穿いて生きていた。それがあるとき、なんのきっかけだったかは定かではないが、ビキニパンツというジャンルに開眼し、ネットで買うなどして愛好するようになり、そしてとうとう3年前からは、ご存知のように自作をするようになった。最後の部分に関しては、だいぶ特殊であるという自覚症状はもちろんあるのだが、ボクサーパンツとトランクスという二択からの脱却という傾向は、もっと世の中でその機運が高まっているものとばかり思っていた。でもそれは、僕の見ているサイトや商品レビューの人たちが局所的に苛烈にそうなのであって、圧倒的大多数の男は、そうではないのだ。当たり前なのに、知っていたはずなのに、ちょっと忘れかけていた。ネット社会は怖いな。自分に興味のあるページしか見ないから、まるで世界が本当にそう存在しているかのように思ってしまう。
ショーツ製作で迷走していた時期、すなわちのび助ショーツなどで、ちんこ突出の流れが止められなかった(大いなる力に意識と体を支配されてしまい、自分の意志ではどうしようもなかった)とき、プールやサウナで、パンイチで髪を乾かしたりできないので不便で困っていた。だったらそのときだけは普通のボクサーパンツを穿けばよかったじゃないかとか、そもそもちんこ突出型ではないガーリーショーツなら問題ないのかとか、少し距離を置いて眺めたら、このあたりの心の動きについてはいろいろツッコミどころはあるのだけど、渦中にあるときは冷静な判断ができないため、本当に悩んでいた。
そんなとき、ならばこれならどうだろうと、ボクサーパンツを作ったことが実はあった。そうなのだ。僕も、たぶん1年半くらい前、一瞬ボクサーパンツ派(ただしハンドメイド)に回帰しかけたタイミングがあったのだ。
そのとき作っていたのが、こういったものだった。
なにしろスイムウェアはボックス型で作っているわけで、その型紙を転用すればよかった。スイムウェアとの違いは、ウエストに紐を通さないところと、あとスイムウェア作りにおいては作動させている公序良俗への配慮のゲージを、下着だからという理由でちょっと抑え目にしているところ。すなわち、陰毛なんかはぜんぜん上部からはみ出るくらいローライズだし、中央部の空間も、やはりそうは言ってものび助ショーツを熱心に作っていた時期だったので、どうしてものびのびさせずにはいられなかったようで、スイムウェアよりもだいぶ大きく作っている。
横から見るとこのような感じ。
斯様に、いろいろな模索があった。誰にも見せない泪もあった。決して平らな道ではなかった。けれど確かに歩んで来た道である。いくつもの日々を超えてたどり着いた道である。だからもう迷わず進もうと思う。ちんこぶっかけ橋へと。
思わず無意識に大好きな歌の詞を、自分のオリジナルの言葉であるかのように書き連ねてしまった。これではやっていることが安倍なつみと一緒だ(先日17年前の日記を読んでいて、もう本当にすっかり忘れていた、なっちの騒動のことを思い出したのだった)。
とにかくなにが言いたいのかと言えば、世の中のなんだってそうだが、こだわらなければ最低限の要件さえ満たしていればそれでいいけれど、ひとたびこだわり出すと、わりとどんなものでも奥が深いので、ならば長い人生、なるべく奥の深い所まで挿し込みたいものですね、ということだ。なんか高田純次みたいな適当な〆になったな。